The Beatles US LP record

 EMIのレコードの販売は、アメリカではキャピトルが行っていたのだが、そのキャピトルは当初ビートルズには興味を示さなかったので、アメリカへの進出はそう簡単ではなかった。そこでプロデューサーのジョージマーティンが、他のレコード会社にもアプローチをしたのだがこれもうまくいかず。やっと契約にこぎつけたのが、シカゴのマイナーレーベル、ヴィ―・ジェイである。

 アメリカで発売されたビートルズの初アルバムも、もちろんヴィ―・ジェイから発売された。1963年7月22日発売の「Intoroducing... The Beatles」がアメリカでのデビューアルバムである。このアルバムはあまり売れず、その後に契約したキャピトルから1964年1月20日、アルバム「Meet The Beatles」が発売され、これが大ヒットしたため、デビューアルバムという印象が薄くなってしまう。しかも「Meet The Beatles」のジャケットには「The First Album By England's Phenomenal Pop Comb」という見出しが付けられていた。

 キャピトルの大々的なプロモーションにより人気に火のついたビートルズ。それに便乗すべく、複数のレコード会社からアルバムが乱発されるというカオスな状態になる。ヴィ―・ジェイに至っては、他のアーティストとの強引な組み合わせ盤や、ジャケットを変えただけの同内容のアルバムを出すなど、限られた手持ち曲で苦しいリリースを続けた。

 1965年以降はキャピトル1社に落ち着くが、キャピトルはその後しばらく独自に編集したアルバムをリリースし、それは1967年まで続くことになる。ビートルズはその後、解散後からソロに至る1975年まで、アメリカでのリリースはキャピトルに頼ることになる。

 当時のアメリカでは、このように今では考えられないようなリリースが行われていた。ここではそんなアルバムたちを1枚ずつ紹介していく。


on Vee Jay Records


on United Artists Records


on Capitol & Apple Records

 キャピトルがリリースしたアルバムには、イギリスでリリースされたものとは違うミックスの曲、違うテイクの曲が収録されていることがある。しかしこれらはアメリカ向けにイギリスのEMIがミックスやカッティング指示を行ったもので、決してアメリカのキャピトルが勝手にミックスしたわけではない。イギリスから送られたそれらの曲は、キャピトルによって各アルバムに割り振られて、それらがアメリカ独自の編集盤となった。

 キャピトルのジャケットは、厚手のボール紙2枚を重ね、裏からモノクロ印刷の紙が貼られ、端を表に織り込む。そして表紙が表に貼られるという作りであった。レコードはその2枚のボール紙の間に収められていたため、レコードが下の部分を突き破ってしまったり、歪みにより背表紙が裂けてしまったりと、今では美品を見つけることが非常に困難である。他にも、表紙がレコード型に擦れるリングスレが起きたり、コーティングの無い紙という性質上シミや破れなどとにかくとてももろい。当時、アメリカではレコードは消耗品という意識であったことを考えるとしょうがないことではあるのだが。

 レコードをプレスしていた工場はスクラントン(東海岸)とロサンゼルス(西海岸)2つ、1965年からはジャクソンビル(東海岸)、1968年からはウィンチェスター(西海岸)が新設され合計4つ。時にはその工場では間に合わず、コロンビア、デッカ、RCAビクターの工場へプレスを委託することも多々あった。

 ジャケットは、ニューヨーク州のブルックリン、ロングアイランド、インディアナ州のテレホート、インディアナポリスのそれぞれで印刷されていた。そしてブルックリン、ロングアイランドで印刷されたものはスクラントン(東海岸)の工場へ、テレホート、インディアナポリスで印刷されたものはロサンゼルス(西海岸)の工場へ送られたのだ。1965年の夏に新しくできたジャクソンビル(東海岸)の工場へはインディアナ州のもの、1968年に新しく出来たウィンチェスター(西海岸)の工場へはインディアナ州のインディアナポリスのものが送られた。